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  モータースポーツ編 ・ レース 2

 
 


   

レースデビューは1982年の富士フレッシュマン
シリーズのP1600 ファミリアクラス
26才でした。意外と遅いデビューです。

しかしデビュー戦で、予選二位、決勝は優勝!!!

なんと、デビュー・ウィンを飾ってしまいました。
 

このBD1051型ファミリアはマツダの歴史の中でも大ヒットした車です。                          

FISCOは学生時代から、ナンバー付きの車で走り 込んでいましたが、いざレースとなると、練習時とは ちがう超接近戦をゴールまで、5〜6台で戦うハード さが有り、さすがにデビュー戦ではビックリしました。 
ファミリアはスリップ・ストリームが凄く効くので、ストレートは6台が3列でダンゴになって走り、 第1コーナーで少しバラけるといった常態の連続・・・・

前後・左右の車間距離が30cm以内のダンゴ走行は
富士のハコのレースでは名物?かも知れません。

画像は1983年の物です。     

     
           

 
 

2シーズン参戦し、RJロータリーにステップアップした後もスポットで参戦

車は当時の彼女、今のかみさん の所有車です。
 
 

 


 
 後ろの黒シャツの人物は元MSの後輩で、Cカーのメカニックを経験後、アメリカに渡りロッド・ミレンのチームでパイクスピークのマシンのメカニックになったとか・・・  

今はどうしてるかな?          


 
 
 

 
レース参加二年目の終わりに、本格的なレースカー
を中古で購入、自分でフル・メンテして参戦


ポールポジションの、となりのマシンに乗るドライバーは、中川隆正選手です。

数年後、ウエスト・レーシングカーズのフルメンテで同じチームで走る事も有りました。

サポートの人物はその後、色々なレースで協力してもらう事になったが、当時は想像も出来なかったなぁ〜
 


84年、RJロータリーレースにステップアップ、参加3戦目に予選2番手をゲット。
 私の マシンはウエストの83SK ゼッケン7です。 

となりのマシンは新型のウエスト85Sです。    


まだこのクラスではルーキーだった私が、中古の型落ちマシンで新型と同等に走ったのですから・・・・
ウエストの神谷社長もびっくり?、でも私もMSの環境を生かし、ギリギリの軽量化を施しての参戦でした。(お金を掛けずに手間を掛けて性能アップ!?) 

スタートダッシュでトップになり周回。

トップ集団は3台で形成され、一時3番手に落ちた時も有ったが、終盤立て直し、トップとテールtoノーズになる常態で2位でゴール。

後方集団は100Rで多重クラッシュが発生しまだ見えない。

富士で35秒台の15周レースは初めてだったので、ペース配分(スタミナ不足)を初めて感じたレース。

モーター・スポーツって、スポーツだね!?
 


 
 



RJ/SJクラスのちにRSと呼ばれるシングルシーターのボディー・カウル付きのレーシングカーです。

180馬力前後のエンジンで、車重500キロでしたから、F3と同等の性能の中間カテゴリーのレースでした。
 

マシンは ウエスト・レーシングカーズの85S


レーシングスーツは当時マツダのワークス・ドライバーの従野選手の御下がりを着ていました。
その当時マツダスピードではラッキー・ストライクカラーの757を走らせていましたので、前のスポンサーのNIKONカラーである黄色を多用しています。


この頃は富士500km耐久レースなどのビッグレースの前座で走る事が多かったです。
      

 
 

この頃、ウエスト・レーシングカーのライバルとして、オスカー・レーシングのSK85が増えて来た。
 

 当時のRJ/SJマシンとしては他に、マナティー、マキシム61S、鈴鹿ではコラージュなどの少数派も参戦していた。
シャシーはウエストでボディーのみをIGAで製作して参加していたマシンの戦闘力は結構高かった。


RJシリーズは筑波でのレースが主で、一時期は予選落ちが発生する程盛り上っていました。        
当時このクラスでは破格の優勝賞金50万、シリーズチャンピオンは100万の賞金でしたから、当然だったかも知れません。                      
トップは私です→ 

ポール・ポジション、入賞は多数有りますが、なかなか優勝できませんでした。   

優勝できる様になったのは、マシンをSK90にしてからです。