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マツダ
ファミリア4WD |
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今はもう廃刊になりましたが、モータースポーツ入門誌 「スピード・マインド」の飯塚 編集長にお願いして、雑誌企画でBFMRファミリア4WDのレース仕様を製作し、筑波9時間ナイト耐久レースに参加させました。 まだ、サーキットでは4WDは珍しい時代、同時期に走ったのは、スバル・レガシーぐらいでした。 企画タイトルも「4WDはサーキットでも通用するか」 ってな具合で、今ではサーキットでも常識の4WDが当時は、とても珍しい時代でした。 |
ベース車両は、
マツダの広報部に提供頂き、製作は潟}ツダスピード内の私の所属していた、第1技術課で製作しました。 自分で企画して、スピマイ編集部と潟}ツダと潟}ツダスピードを巻き込んで、自分と部下で製作して、ハンドルまで握り、原稿も連載で書く・・・ 今、考えると大胆な事をやったもんですね (;^_^A 正直な所、このBFMRファミリアはWRCラリーや全日本ラリーでは凄く活躍していましたが、マツダ社内のグループA車両のテストではあまり良い状況では無かったので、初めてのフルタイム4WDの機構がサーキットで通用するか心配でした。 |
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しかし、幸運な事に、筑波9時間耐久の予選が、丁度雨だったので、並居るシビック等のホンダ車を押しのけ、予選は8位でした。 参加の半数近くが予選落ちするレースで、ドライ路面では予選通過が無理かも知れないタイムしか出ていなかったので、本当にラッキーでした。 ↓ スピードマインド誌の原稿も書きました。 |
レース自体は、良いペースで走行していたのですが中盤にヘッドガスケット吹き抜けでオーバーヒート、 応急処置でチェッカーまで走らせましたが、周回不足で結果は残りませんでした。 その後、スプリントレースにも数戦参加させ、ミラージュターボと良い勝負になりました。 この、翌年辺りからギャラン4WDとかスカイラインR32などが一気に増えて、四駆はサーキットでも、 常識になりまた。 |
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1991年 N1耐久シリーズ
4WDジェミニ |
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潟}ツダスピードの退職を決意した、理由の1つが 職業レースドライバーの仕事を得た事です。 退職後、すぐに (有)ノガミプロジェクトを設立。 ちょうど同時期に「東京科学芸術専門学校」の設立の手伝いの仕事も入り、カリキュラムの設定調節する役目も負いながら、非常勤講師で授業を行い、週末にはサーキットでレースに参加するといった、状況で、多い時は月に3レースも参戦した時期もあり、 金土日ですから、結構忙しかったです。 |
この年から、32GTRを筆頭に一気に4WDの車両が増えて来ました。 私は、4WDターボのジェミニ・イルムシャーでN1耐久シリーズに小山ガレージのチームでステアリングを握りました。 以前にファミリア4WDでレースに参加していましたから、その経験も役に立ち、コンスタントに完走して上位の成績を残し、ポイントを稼ぎました。 |
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画像はあまり残って居ませんが、注目を浴びているGTRの1クラスの戦いの影で、シーズン後半まで、2クラスでポイント争いが続き、他のチームとの差がわずかなので、参加を予定していなかったMINEサーキットにも遠征する事になりました。 なんと! そこで、クラストップでゴールできたので、クラスチャンピオンの期待がいよいよ高まりました。 ライバルはRSオガワのミラージュで、次戦でミラージュより上位でゴールすれば・・・・ 決定です。 |
シーズン最後のレースは、スポーツランド菅生で行なわれました。 このコースは私は初めて走ったのですが、全て順調に進み、クラスチャンピオンになりました。この時、ラストラップのステアリングを握りましたが、かなり慎重に最終コーナーを走り、菅生の登りストレートを駆け上がって、チームメンバーの待つゴールラインにクラストップで通過し、ジェミニをチャンピオンカーにできたの時の記憶は、今でも鮮明に覚えています。 ゴール後、ISUZUの西堀さんから、記念にイルムシャー・デザインの腕時計を頂きました (^-^)v |
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グループA ISUZU
FFジェミニ |
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いすゞのワークスチームと言えるKRSのグループAマシンのFFジェミニで、1991富士インターテックに参加しました。 そもそもは、国際ライセンスの更新条件を満たす為に、第3ドライバーで乗せてもらったのですが、予選でKRSのレギュラードライバーより、良いタイムを出してしまった為か?、決勝ではドライバー3人で4ステイントの内、まん中の2ステイントを連続で任されました。 普通にピットインして、ドライバー交代かと思っていたら、給油だけして、そのまま続投との指示でビックリ、無線で先に伝えて欲しかったですね。 |
そこで、シートベルトを締め直し、又コースイン・・・・ レース全体で見た結果は結局、完走でしかなかったですが、コーナリング時に油圧低下の症状を抱えたマシンを労わりながら、インターテックの大舞台でレース全体の1/2の距離のハンドルを任され、リタイヤせずに、ゴールまで走らせる手助けになった事は、ドライバーとし使って頂いた事を含め、良い経験になったと思っています。 |
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1992年 N1耐久シリーズ 4WDジェミニ |
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N1耐久シリーズ参加2年目は、チームにビッグスポンサーが付きました。 運輸業では大手の鴻池運輸です。 国内の色々なサーキットを転戦しますから、全国の鴻池運輸の各営業所から、鴻池応援団ツアーが組織されて、地元のサーキットのグランドスタンドから多くの声援を受けました。 レースの合間に、撮影会やサイン会などもありましたが・・・ まだサインした色紙を持ってる人は居ますかね? |
このシーズンは、前年とは変わり、車両にマイナートラブルが続発して完走すらおぼつか無い状態が続きましたし、新たに、ホンダのプレリュードが同じクラスに数台参加して来たので、よけい苦戦したのも事実です。 又、いすゞの乗用車部門の廃止と共にレース活動も終了してしまい、ジェミニのハンドルを握る仕事は、この年で無くなってしまいました。 バブリーな時代でしたね・・・・ (;^_^A |
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