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  モータースポーツ編 学生時代〜就職 




二代目の愛車は三菱のギャランFTO 1400SL5

本当は純正でオーバーフェンダー付の1600GSRかランサー/セレステGSRが欲しかったのですが、予算不足の為、妥協・・・・・

当時、ランサーGSRがサザンクロスやサファリラリーで活躍していました。


雪道・ダートを走るのも大好きでしたが、ジムカーナーを始めた事で、舗装のモータースポーツの世界にドップリ・・・・  




まだLSD付きの車両が珍しい時代ですから、当然オープンデフです。


サイドターンは好きでした。しかし、LSDの付いて居ないデフでの立ち上がりのアクセルコントロールは我慢が必要・・・・・
踏みすぎるとホイルスピーン!


バックスピンターンは得意でした!?
競技では使う事はないですが・・・・・・

サーキットでスピンした時は有効です (笑)  

FISCOのコースもコースライセンスを取得して街乗り
仕様で月に一回は走りに行きました。

プロダクション仕様のサニーとタイム的に近かったので、鬼ロールする愛車をねじ伏せながら、レース車両と勝手に競争していました。


当然、タイヤは街乗りラジアル

175/70−13がワイドラジアルと呼ばれて居た時代です。
60%扁平はまだ違法タイヤでした。
 




当時、仲間の車を借りてコースを走ると、オーナーのタイムより必ず速いタイムを出しましたが、たまに大スピンをするので、タイヤがぁぁぁ・・・・  

まだまだ荒削りなドライビングだったんですねぇ〜


でも、車を壊す程の大きなアクシデントは一度も有りませんョ♪

走る為の実費で、バイト代・小遣いを使い切ってしまうので、服装は・・・・  
ディスカウントショップで買った作業つなぎ、二輪用の高校時代から使っているヘルメット・・・・ 

しかし、マスクとグローブは、激安学生ツアーで初めてイギリスに行った時に地図とオートスポーツを見ながら探した、レーシングブティックで有り金を叩いて買った物です。

実は、後日判るのですが、その店は後のマツダの契約ドライバーのD.ケネディーの経営する店でした。




整備も自分でやりました
雑誌や整備書を見ながら、チープな工具で・・・・

今にして思うと、身の程知らずで無茶な事もいっぱいやりました。


チューニングと言うには、大したレベルでは無いですが、解体屋に行ってフライホイールを安く買って来て、H商会で旋盤で削ってもらい、自宅のカーポートで交換しました。





白つなぎは、仲の良かった友人のヒサシです。
彼の愛車はサバンナGSKで、その車で初めてロータリーフィーリングを味わいました。

彼の武勇伝?は246号のバイパスを五名乗車で私に続いて走っていて、360°スピンをした事です。
ミラーに写った映像は今もしっかり覚えています。

みんな無事で良かった・・・・








学生時代の仲間とは、レースも見に行きました。

なぜか、つなぎ服姿・・・ 


関係ない話ですが・・・
当時、宇崎竜童のダウンタウン・ヴギヴギバンドがヒットした頃ですから、渋谷あたりでも白つなぎを着た人が大勢いました。



スーパーシルエットと呼ばれた、グループ5クラスのレースです。


ル・マンに参加したMAZDA RX−7252i

手前はRX3 

FISCOのピットは屋根だけ、シャッターは有りません

ピットロードの境はガードレールが二段有るだけで、今考えると、かなり危険な環境ですが・・・・

 






ドライバーは寺田係長、中央は大橋課長

半分隠れて居るのが、田知本主任

まだ、マツダスピードではなく、マツダオート東京・モータースポーツ課としての活動でした。

私は、入社一年半後に、希望したそのセクションに配属される事に・・・     それまでは、お決まりの
車検整備、新車架装、一般整備 etc



黄色い車はブルーバードターボ?

アウト側はRX−7 252i

赤/白はセリカターボ






当時人気のGCレース


グラチャン族などと呼ばれた、集団がレース開催日になると、東名高速を走りまわり、とても迷惑でした。
彼らは、レース自体には全く興味が無い反社会的集団です、  まっ、いつの時代にも形を変えて存在しますが・・・・  

最近は暴走族と言うよりは、覧音低速族?






   

マツダオート東京に就職が内定し、全国のマツダディーラーの内定者をリゾート施設に集め、研修と言う名の短期集団娯楽生活?がありました。


寺田・従野選手を囲んで、コテージ毎の夜の親睦会

10年後この中のメンバーでオート東京に残って居たのは私を含めて三人でした。

                        



ここだけの話?ですが、 寺さんの頭髪は自前です
アートネイチャーではありません・・・ 



左端は今も高田馬場(営)に居る山ちゃんです。






寺田社長、失礼致しました! m(_ _)m
           





就職が決まって、ローンで買った55年式、マツダの60周年記念限定のRX−7

48年式のFTOがとても古く感じます・・・・
後輩に引き取られて行く前の最後の写真です。





RX−7を手に入れてからは、ジムカーナーも常に入賞、表彰台、のメンバーに仲間入りしました。
主に、東日本シリーズに参加しました。

全日本を目指したのですが、ル・マン準備の仕事の関係で休みが取れない為、シリーズ全戦参加できず、ポイントが足りなく涙を飲みました。
(当時の全日本戦は各地区の上位ポイントの人が集まって戦っていました)

   





就職してからも、学生時代の友人・後輩と、スポーツ走行に来ました。

赤い車は、マツダのカペラロータリーです。


スポーツ走行は、テスト走行も含め色々な車が一緒に走りますから、TS仕様とかは当たり前で、たまにワークスのグループ5やGC、F2なども走っている事が有りました。


テスト中の デイトナで優勝したマツダワークスのRX−7に、260Rでアウトから抜かれ、100Rに消えて行く後ろ姿はとロータリー・サウンドは、今も脳裏に残っています。




ノーマルのSA22Cで、フレッシュマンレースのP3000クラス(ロータリークラス)の中団レベルのタイムは出ていましたから、多少自信は有ったのですが、ディーラーの給料でレースに参加するには、無理が有りました。


その後、社内で一般整備からモータースポーツ課に移動できて、仕事は辛く、残業の嵐でしたが、その分時間は無いけれどお金は少し余裕が出てきたので、後に始まったファミリアクラスのレースに参加する事ができました。(別項参照)